私たちは、どうして飾ることに
これほど手をかけるのだろう…?
30年近く続けてきた盆棚づくり。
その仕事を続けるなかで、ふと生まれた疑問です。
これは盆棚に限った話ではありません。
私たちはこれまで、人生の節目や季節の折々に、
さまざまな形で、その時々の場所を飾ってきました。
ではその背景には一体何があるのでしょうか?
誰にも確かめられないこと
お盆になると、亡くなった方が帰ってくる。
そのため私たちは迎え火を焚き、
提灯に灯りをともし、新盆となれば
帰ってくる方のための「家」のような場所を、
自宅の中につくります。
でも…
「本当に帰ってきているの?」
子どもの健やかな成長への願いを託す節句人形。
季節が来れば、部屋を整え、
人形やお道具をきれいに並べて飾ります。
でも…
「本当にその願いが届くの?」
どちらも保証はありません。
誰にも確かめられないのです。
少なくとも2026年現在は。
効率や合理性だけで考えるなら、私たちは
なんとも不思議なことをしているようにも思われます。
見えるもの、見えないもの
子どもが生まれる。
その出来事は目に見えます。
けれど、健やかに育ってほしいという思いは、
目で見ることができません。
誰かと結婚する。
ふたりの並ぶ姿や結婚指輪は目に見えます。
けれど、幸せな家庭を築こうとする思いは、
目で見ることができません。
大切な人が亡くなる。
その事実は誰の目にも明らかです。
けれど、亡くなった人を思う気持ちや、
もう一度会いたいという願いは目には見えません…。
出来事そのものは目に見えるのに、
その先にある願いや思いは、
どうやっても目に見えないのです。
形を与えること
・子どもが生まれたら、祝いの品を贈る。
・成長したら、晴れ着を着る。
・結婚するとき、指輪を交わす。
・人が亡くなれば、墓を建て花を供える。
そしてお盆になれば、
帰ってくる人のために場所をつくる。
願い、思い、喜び。
生きてきた証や、消えることのない誓い…。
おそらく人は、目に見えないものに形を与え、
その形に役割を持たせてきたのではないか。
そう考えると、いろいろと辻褄があいます。
目に見えないものは、
すべて幻なのだろうか?
盆棚を飾りに伺ったお宅で、
亡くなったご主人の話を、
懐かしそうにしてくださった方がいました。
「前までは亡くなった主人が飾ってたのよ」
そう言って微笑んだ、その時間。
それが幻とは私には思えません。
目には見えなくても、
人の中には確かに残るものがあります。
目には見えないけれど、
生きている自分たちにとって
確かに意味のあるもの。
それを幻と呼ぶのは、
やはり違うような気がします。
それを忘れないために。
それを受け止めるために。
それを誰かと分かち合うために。
そして大切なものだから、より丁寧に。
願いを託すものだから、できるだけ不足のないように。
人は形をつくり、そこに時間と手間をかけてきた。
飾る、という行為には、
そうした意味があるように思います。
では、そうして形を与えられたものは、
そのあと、どうなっていくのでしょう…?
「飾るということ。」全4話
お盆の飾りから始まった、ひとつの問い。
私たちは、なぜ「飾る」ことに手をかけてきたのでしょうか。
第2話 (現在の記事)
私たちは、なぜ飾ることにこれほど手をかけるのだろう